「精神障害者っていうレッテルを貼られるのが嫌な人が多いんだよ。昔の言葉で言えば◯チガイだからね」
こう言ったのは、統合失調症の友人だ。
先日、精神障がい者の福祉施設の理事長と話す機会があった。理事長は、「これからはお互いが助け合って、精神障がい者もどんどん、社会に対して発言し、自らの手で社会を動かしていってほしい」と私に言った。
障害があっても、社会を動かし、幸せに生きて行くのは素晴らしいことだ。そのためには他者と協力する力、コミュニケーション能力が必要になってくる。
精神障がいを持つ人は、積極的に自分から他者とコミュニケーションを取ろうとしない人が多いと、ある精神障がい者施設の職員から聞いたことがある。そこで他者とコミュニケーションを上手にとるという問題をクリアするためには、どうしたら良いのだろうか?と理事長に問うた時、傍で話を聞いていた友人が口を開いた。
「(人と接することが嫌なのではなくて)精神障害者っていうレッテルを貼られるのが嫌な人が多いんだよ」
「じゃあ、私はこうことができます。誰か助けてくれる人はいませんかっていえない?」私が聞くと
「それが言いにくい」と友人は言った。
精神障がいを持つ人は頭の良い人が多い。お互い助け合えたり、誰かに援助をもとめたりできれば、高度なことができる人や、社会に対して価値を創造できる人も多いと思う。
けれど誰かと協力しあったり、助けを求めるには、まず自分がカミングアウトなければいけない。けれど社会の偏見がその壁になっているらしい。偏見に晒されるので、援助を求められないということだ。
このような難しさをかかえる精神障がい者達の状況を世間にわかってもらって、自分達が生きやすくなるように社会にアピールするなら、ARTって良い方法じゃないかとわたしは思う。
なぜARTが良い方法かというと、一つは、ARTは障がい者=保護される立場=可哀想な弱者という一般的な考えを超えたところに、私たちの意識を連れていってくれるから。それは偏見を超える力になると思う。素晴らしい絵を描く、知的障がいを持つアーティストはその例だろう。
一つは、ARTは理屈と感覚と両方で伝えたい何かを社会に対して伝えることができるから。
一つは、ART作品を作り発表するというプロセスは、作り手を癒したり、成長させたりすると思うから。
今、ソーシャリー・エンゲイジド・アートというのが注目されている。社会問題を見える形にするというアートだ。対話やディスカッションをしたり、共同で何かを作ったりするなど、やり方はいろいろあるようだ。
「精神障害者というレッテルを貼られるのは嫌」
「誰か援助してくれる人がいれば、自分はできることがたくさんある」
「偏見がなければ、人とコミュニケーションをちゃんととれる」
いいたいことはたくさんあると思う。いいたいけれど、言いにくいことはARTという形でいったらどうだろう。
言いにくいことを言葉を超えて伝えるのは、ARTは得意だと思うから。