エッセイ

映画『火花』感想。漫才師は「笑」のアーティスト

映画の『火花』を見た。『火花』の原作は、お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹の芥川賞受賞作『火花』だ。映画『火花』を見て、漫才師というのは、アーティストなんだと思った。彼らは「笑」をどこまでも追求していをく、アーティストだ。

どうしたら人が笑うか。人を笑わせられるか。いつも考えて、深く考えて、自分の頭と体を使い、ネタという作品に仕上げ、それを舞台の上で漫才という形で表現する人。

『火花』は、重く、悲しい映画だ。アーティストである彼らの才能が、消費され、打ち捨てられていくのが、悲しくやるせない。出演は、若手漫才師、「スパークス」の徳永役に(菅田将暉)、徳永の先輩漫才師、「あほんだら」の神谷役に(桐谷健太)

『火花』は、売れない漫才師、徳永と神谷の物語。若手漫才の徳永はある日、熱海の興行で神谷に出会う。神谷の漫才師としての才能と人柄に惚れ込んだ徳永は、神谷に弟子にしてくれと頼む。こうして、漫才を通して徳永と神谷の交流が始まった。

徳永は型破りだけれど、魅力的なエネルギーがある。そんな神谷を徳永は尊敬し、漫才師として大きな影響を受けた。しかし、神谷の魅力は一部の観客には伝わるが、興行の主催者側や審査員の受けは悪い。型破りすぎるのだ。神谷は表現の場をなくしていく、神谷の生活は次第に荒んでいき、やがて徳永は神谷とは距離を置くようになる。

漫才師などのお笑い芸人は、興行主やメディア側から見れば、消費財でしかないのだろう。地方の小さな劇場から、TVなどの大手メディアにいたるまで、彼らは漫才師を消費する。漫才師の生み出す「笑」を大衆が喜ぶ。大衆の喜びはお金というエネルギーに変わる。大衆が魚だとすると、漫才師は餌だ。

「笑」に群がる大衆と、餌に群がる魚は同じ、漁師はメディア側の人々。「漫才師は、魚を釣るための餌と同じじゃないか?」映画を見ながらそんなことを思ってしまった。

貧しいなか、10年ほど漫才師として頑張った徳永は「スパークス」を解散し、普通の仕事についた。一方神谷は、事務所を解雇され、相方にも愛想をつかされ借金漬けの生活を送っていた。ある日、突然徳永に神谷から電話が入る、2人は久しぶりに再開する。

神谷に再会した徳永は神谷の胸の異様さに気がつく。神谷が「Fカップですぅ。シリコンめっちゃ入れてん」と言いながら巨乳を見せる。神谷は、笑をとるために巨乳の手術をしたという。この場面、私は「ゲェ!」と思ってしまった。

「誰が笑うんですか?」と神谷にいう徳永。

「これでTVにでれると思うてん…」と神谷。

「出れるわけないでしょ! 30代のおっさんの巨乳見て誰が笑うんですか?」と徳永は激しく、悲しみの籠った口調で神谷に訴える。

神谷ほとんど狂気の世界に入っている。あがき、もがいている。そして現状では、とても出口のなさそうに見える生活苦のリアリティ。

『火花』を見て、私は悲しく、もどかしく心が揺れた。メディアに才能を消耗品のように使われただけ。今は捨てられて行き場もない。それでもなお、表現者として燃焼したいと願うエネルギーを「笑」のアーティストである神谷から感じるからだ。

もっと楽な行き方があるだろう。もっと普通の行き方があるだろう。でも、神谷には、どうしても内側から表現したい何かがあって、それが湧いてくるもんだから、普通に平凡に生きろといわれてもできないのだろう。内なるエネルギーが出口を探してしまうんだろう。

神谷は結構モテる男で、貧乏ながら、いつも女性に生活の面倒を見てもらっていたが、胸にシリコンを入れた男など、気持ち悪くて女は近寄らなくなるだろう。これからどうやって神谷は生きていくんだろう? などと、余計な心配をしてしまった。

『火花』とはなんだろう。空にパーっと広がる火の華。『火花』とは、彼らの「笑」の華を咲かせること。日の当たる場所に出ること。TVのスポットライトをあびることか?

映画『火花』の冒頭は、打ち上げられた光が2筋、どこまでも、空を登っていく映像が映し出される。打ち上げられた火の華が開くことはないのか?

神谷には特殊な才能があった。映画で、神谷と徳永が、公園を散歩している時に、太鼓のパフォーマーに出会うシーンがある。パフォーマーの太鼓に合わせて神谷が踊る場面が印象的だった。

まるでシャーマンだ。中今、ゾーン、いろいろ言い方はあるけれど、神谷は太鼓のパフォーマーと共振し、太鼓の音と共に、神おろしをしていた。

神谷のエネルギーは一般受けはしないかもしれないが、伝わる人にはちゃんと伝わり、神谷と共振するのだ。そんな特殊な才能があるのだから、「笑」を表現したいなら、TVに出ることばかり考えなくてもよかったのではないか?

徳永も神谷も、直接彼らの「笑」を観客に届ける方法を考えないのだろうか? 表現の場として、大手メディアや、興行主を通さず、直接自分たちの手作りで観客に接する場や、選抜される必要のないだれでも出演できるメディアを。

この映画の時代設定は、2002年頃に始まり2012年で終わる。You Tubeがはじまったのは2005年。You Tubeでアマチュアのお笑い芸人たちがYou Tuberとして頭角を表してきた時代と重なる。

TVに出られなかったとしても、ネットのメディアならいくらでも出ることはできた。徳永や神谷の才能があれば、2005年からに You Tubeにでて、「お笑い」をやっていれば、結構な再生回数で、立派なYou Tuberとして、そこそこ稼げたのではないかと思ってしまった。だからこそ、今現在、お笑いであれ、アートであれ、多くのプロがYou Tubeに作品をアップしているのかもしれない。

You Tubeだけじゃなく、他にもいろいろ方法はある。例えば、音楽を聞かせるライブ喫茶みたいに、漫才喫茶があってもよいではないか。消費されるだけで終わるより、自分がオーナーになって、自分の店で漫才やった方がよいではないか。まぁ、今はコロナで飲食業は厳しいかもしれないが…。

「笑」のアーティストは、作品を作ること、表現することにはエネルギーを使いたいけれど、どうやって表現の場を自分で作り出していくかということには、あまりエネルギーが出ない人たちなのだろうか? だったら、場を作るのが好きな人と一緒に「笑」を作り出す場を作ってはどうか? なんて考えた。

「笑」のアーティストも「造形」のアーティストも構造は同じかもしれない。これからの時代、誰かに選ばれるのを待っているのではなくて、直接観客、もしくは鑑賞者にアピールする方法を考えた方が良いのではないか?

神谷のように才能のあるアーティストには、ぜひキラキラとした花火を空に咲かせて欲しいと願う。天才というのは、大きく何かが欠けている場合がある。だからといって消費されて終わるなんて悲しすぎる。

これからは、自分自身の表現の場、自分自身のエネルギーを出すメディアは自分達で作っていく時代なんじゃないかと思う。1人でできないなら誰かの助けを借りればよいのだ。

こうしたら良い、ああしたら良いなんて、やったことがない人のセリフといわれそうだ。実際そのとおりだし。『火花』はそれでもおばさんが勝手なことをいろいろ考えてしまう映画だった。

 

映画 製作情報

  • タイトル:『火花』
  • 製作年度:2017
  • 上映時間:121分
  • 製作国:日本
  • 配給:東宝
  • 監督:板尾創路
  • 製作:岡本昭彦 市川南
  • 原作:又吉直樹「火花」
  • 脚本:板尾創路 豊田利晃

キャスト

  • 菅田将暉……若手お笑いコンビ「 スパーク」の徳永役
  • 桐谷健太……徳永の漫才の師匠で、お笑いコンビ「あほんだら」の神谷役
  • 木村文乃……神谷の生活の面倒をみている真樹役
  • 川谷修士……「スパークス」 徳永の相方の山下役